FC2ブログ

記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ジャコメッティのドローイング

5b336159646fdcd8cfebd6acb41af2eb.jpg

一時視覚野に流入する神経繊維のうち
網膜からの視神経が占める割合はおよそ4%に過ぎず
残りの96%は逆に
高次視覚野などから降りてくる内部情報だという。

たとえばリンゴを見てリンゴだと了解するとき
その了解を成り立たせる情報量は
実際のリンゴから網膜に来るものが4%で
自分の過去の記憶から来るものが96%ということになる。

リンゴから網膜に届くのは光の波動で
その感受が感覚だが
その感覚データには読み取りデータとしての
内部からの記憶が合体し
こうして知覚が成立すると
わたしたちはリンゴがあると了解する。
だから知覚は過去による現在の解釈といえる。

これは過去事例をもとにして確かさを求め
自分にとって安全かつ有利な判断を下そうとする
生命の功利的な戦略なのだろう。

過去データが増えれば増えるほど
少量の感覚データだけで事態把握は可能になる。

習慣まかせで生活する場合
感覚データは4%すら必要ないのではないか。

逆に、旅行をしているときなどは
感覚データの流入が増えて
ものや風景が新鮮に見える。

旅先ではじめて見るものを新鮮に感じるのは
感覚データの割合が上がっているからなのだろう。

その割合を可能な限り上げようとしたのが
印象派の画家たちではないか。

モネでもルノアールでも
見えているということ自体が
歓びに満ちた表現になっている。

生命は進化の途上で視覚を獲得し
そのときは、たいへん大きな歓びを体験したのだろう。

その歓びは明瞭に意識化するのはむづかしいとしても
個体発生が系統発生を繰り返すなら
人類のなかに本能として残っているはずで
モネのような画家なら
そこまで遡行することができるに違いない。

ジャコメッティのドローイングになると
その歓びも捨て去り
ひたすら見えているということの本源に遡ろうとしているようだ。

人物デッサンをじっと見ていると
見えるということが一体どういうことなのか
可視性が何一つ実現していなかった宇宙に
どうして見えるという事態が生じたのか
絵のほうから不気味な問いを
投げかけられているようにさえ思えてくる。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。