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死を鏡と見るかガラスと見るか

CIMG6391.jpg

死の捉え方を比喩的に分類すると
大きく2つに分けられるようだ。

一つは死を鏡とし、もう一つはガラスとする。

鏡とする捉え方は
死に関するどんな思考も
鏡に反射して自分を映すことになり
鏡の向こうは把握できない。

この捉え方によれば
生きている者が死についてなにを思っても
その内容は生の断片でしかなく
死そのものはまったく表わさない。

死は不可知であるとする。

この結論にいたると
死についての積極的な思考はやむことになるが
未知としての死が残るから
死の不安から逃れることはできない。

不安を和らげるには
未知なる死を神秘と捉え
この神秘の鏡に映る生もまた
総体としては神秘になるから
生と死をともに神秘としていつくしむ。

死をガラスと捉えると
透明なガラスは向こうを見せるので
何らかの死後が予想できる。

向こうの様子として見えるのは
いわゆる神話が提供するもので
合理的な検証はできない。

合理性をあきらめているわけだが
死についての判断に
合理性を求めないという
積極的な姿勢ともいえる。

合理性を扱う知性は
人類が物質の利用から利益を得るために鍛えてきたもので
たとえば死とはなにかといった
物質利用という範囲を超えたテーマについては
適切な働きをなし得ないと見ることもできる。

合理性は命題の真実性を
万人が認めるための基盤だから
社会的に正しさを要求される思考は
万人のごとくに行う必要がある。

しかし、合理性が検証できなくても
本能による直観の正しさというものがあり
万人ではなく、自分にしかかかわらないことなら
知性の限界で立ち止まらずに
この直観の正しさに従って
判断をすることができる。

本能の直観が受け入れる神話は
それだけで不安を消す力をもっている。
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