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「トリコロール 青の愛」

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「青は自由である。
もちろん、それは平等である。
そして、それはすぐにも博愛になる。
しかし映画『トリコロール/青の愛』は、
自由について、人間的自由の不完全さについての映画である。
私たちは本当はどれほど自由なのだろうか」
キェシロフスキ

この作品は
著名な作曲家の夫と幼い娘を
自動車事故で失った主人公・ジュリーが
深い喪失感を潜り抜け
ゆっくり再生する過程を描いたもの
と、よく説明される。

確かにストーリーはそのように要約される。

ただ、「再生」の過程がどのようなものなのか
そこが重要だろう。

まず、ジュリーは夫と娘を失うことで
生きる意欲をなくして自殺を図るが
死ぬことはできない。

そこで、すべての財産を処分し
過去とはすっぱり切れた
新たな人生を静かに送ろうとする。

夫が生前、作曲中だった
欧州統合祭のための協奏曲も
スコアを処分する。

しかし、過去は彼女を解放しはしない。

作曲中だった曲が、
彼女の意志とは関係なく甦って
意識で鳴り始める。

夫と協力して曲を作っていた男・オリヴィエが
彼女への愛情を表明し
彼女も彼を好きなことに気づいてしまう。
夫の生前には、その気持ちを
おそらく自分に対してさえ隠せていたのだが。

そこでジュリーは
曲とオリヴィエを振り払おうとする。

しかし、オリヴィエに対する愛情の自覚もそうだが
ジュリーは自分という人間に
それまで気づかなった側面を発見することになり
新たな再出発などというのは
単なるきれいごとだと理解し始め
むしろ、過去を含むすべての自分を活かす
という視点をもつようになり
曲の完成にもオリヴィエの愛情にも
正面から向き合えるようになる。

気づかなかった側面のひとつは
自分の中の娼婦だ。

作品中にはアパートの別フロアに住む娼婦が
別人として出てくるが
彼女はジュリーの中にいる分身だと考えられる。

自分では夫への愛だけを育んできたつもりだったが
実はオリヴィエに対する気持ちも生まれていて
複数の男を同時に愛せる自分がいた。
ジュリーはそんな自分に気づいてしまう。

別の側面は残酷さだ。
部屋でネズミが出産をし
子ネズミがたくさん生まれるが
猫を部屋に放つことでその処分を図る。

その実行は別フロアの娼婦が行うが
本当はジュリーの中の娼婦が手を下している。
そのことをジュリーは知っている。

それまで自覚できなかった
自分の中の側面に気づいたあと
ジュリーは死んだ夫に
愛人がいたことを知る。

夫はその愛人を
ジュリーとは違う魅力ゆえに
愛していた。

その事実を知ることで
ジュリーは夫の生前
夫婦は互いに半分しか
相手に見せていなかったことを理解する。

ジュリーは全身全霊で夫を愛していたと思いたかったが
新たに自覚した側面からいって
そうではなかった。
夫は自分だけを愛してくれていると思っていたが
これもまた違っていた。

この認識がジュリーを
自己実現に対して積極的にする。

オリヴィエへの愛情をもはや偽ることはないし
未完の曲を自分の手で完成させ
オリヴィエのすすめにしたがって
その成果を自分のものにすることにも同意する。

夫の愛人に対しては
夫の子を宿していることもあり
もし夫が生きていたらそうしたであろうというように
残された屋敷を譲り渡す。

曲の名義は自分になるので
屋敷は愛人の名義に
といった感じだろうか。

「『トリコロール/青の愛』は、
自由について、
人間的自由の不完全さについての映画である。
私たちは本当はどれほど自由なのだろうか」

「青の愛」は
対他的な自由ではなく
自分を活かす自由を描いている。
わたしたちが実は
自分について全的には認識できていない
という事実を提示することで
そもそも自己について知らないわたしたちは
それほど自由ではないといっているようだ。
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