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「ふたりのベロニカ」1

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La Double Vie de veronique
原題の直訳は「ベロニカの二重の生」。

この作品は
前半の「ポーランド」と
後半の「フランス」に分けることができるが
それをつなぐシーンは
墓に埋葬されるベロニカのヴィジョンになっている。
カメラは棺に横たわっているはずのベロニカの視野を表わし
土中の棺に父親や叔母が上から土をかける動作を捉えている。

このシーンで観客は一瞬
棺に横たわる者の視線を体験させられる。

この直前の、コンサートの舞台でベロニカが倒れるシーンでも
画面はやはり、倒れつつある人物=ベロニカの動的な視野を
生々しく再現している。

つまり、ポーランドからフランスへの移行シーンでは
カメラはベロニカの目になっている。

ポーランドのベロニカは必ずしも
死んだとはいえないようだ。
彼女の魂は存続しているのだろう。

というより、ベロニカは一人であって
命としてはふたつの身体に宿っていたが
そのうちのひとつが生理的な機能を停止したとき
別のひとつがそれを感じ取り
より慎重に生きるようになった。

これが「ふたりのベロニカ」という物語の
全体的なフレームではないだろうか。

おかしいといえばおかしい設定だが
人は他者の生を生きることはできるのか
というテーマにアプローチするには
秀逸だと思える。

人は自意識をもち
各自、自分の生を生きている。
他人は自分と同じような意識をもち
やはりそれぞれの生を生きているのだろう。
他人の生を直接的に生きることはできないので
確証はできないが、そう考えられる。

では、他者を愛するとは
どういうことなのか。

ことばや態度、しぐさなどの表現システムを通して
意思、意図、思いをくみ取り
相手がしてほしいと感じていることを
するようにする
こういったことだろうか。

しかし、これでは間接的すぎるし
限界がある。

愛するとは
他者の生をできるだけ直接的に感じとり
魂の接触を得ることではないだろうか。

さらにいえば
愛する相手になってしまうこと。
自分がその人になってしまう。

ベロニカの間ではそれができる
ということを
この作品はいっている。
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