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死は無か?

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死について書かれたものの中に
死は無であるという考えが
よく出てくる。

その場合の無とはなにを意味するのか
おおむね、はっきりした定義は示されない。
無と書けば分かるだろうということなのか。

多くの場合、文脈から推して
無は「なにもないこと」を意味しているようだ。
つまり、死んだらなにもないことになる。

しかし、なにもないとは
どういうことなのだろう。

わたしが死ぬと
わたしがなくなる。

これは事実のように思えるが
そういえるのは死ぬ当人ではなく
あくまで生きている者だけ。

生きている者は再び
生理的な器官を通したコミュニケーションが
死んだ者とはできなくなる。
その意味で、その人はなくなる。

ただ、わたしがどうなるのかは
生の側にいる限り
はっきりしたことはいえない。

では、死は無であり
わたしは死ぬと無になるということなら
その無とはなんなのだろう。

消滅だろうか。

死ぬとわたしは消滅する。

しかし、消滅というのは変化であって
無になることではない。
あるいは、変化が虚無に収斂すると考えるなら
それは自滅的な観念であって
たんなることばに過ぎない。

なにかが燃えてなくなる。
この場合、燃えたものは無になったわけではなく
物質として変化したのであって
物理学的に無はない。

日常で「なくなる」というとき
事実としては状態の変化がそう表現されているのであって
なくなるという事態が生じているわけではない。

「なくなる」というのは
ことばづかいがそうなっているだけのこと。

このことばづかいをそのまま自分の死に当てはめて
自分は死んだら「なくなる」と思っているのだろうか。
それではほとんど思考の放棄だが
ただ、「なくなる」ことの美しい表現に感動し
そこで思考を停止させることはあるだろう。

「雲に接する摩天楼も、豪奢を誇る宮殿も、
荘厳きわまりない大寺院も、巨大な地球そのものも、
そう、この地上に在るいっさいのものは、結局は、
溶け去って、いま消え失せた幻影と同様に、あとには
一片の浮き雲も残しはしない。われわれ人間は
夢と同じもので織りなされている、はかない一生の
仕上げをするのは眠りなのだ。」
シェイクスピア「テンペスト」小田島雄志訳

シェイクスピアは喜劇から悲劇に移行した後
喜劇と悲劇を併せ持つ最後の作品「テンペスト」で
消滅について語っている。
その消滅は「一片の浮き雲も残しはしない」といって
虚無を思わせるが、同時に
「一生の仕上げをするのは眠り」という表現で
死後に夢見る可能性は留保している。
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