FC2ブログ

記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ベルクソンの考える死後

italie20110910 134


「わたしたちは身体の組織から
あふれ出る意識という考えになれるにつれて、
魂が身体の死後に生き残ることを
自然だと思うようになります。」
(ベルクソン『「生きている人のまぼろし」と「心霊研究」』渡辺秀訳より)

「身体の組織からあふれ出る」とは
例えば、眼球という身体の器官は
物質としてその位置が限定されるが
意識はその器官を通して
遠い星を見ることができる。
あるいは脳は
物質として現在にしか存在できないが
意識は記憶によって過去を思い出し
未来を予見する。
こういったことが
「あふれ出る」と表現されている。

「あふれ出る」ことから
「心的な生活の(死後における)残存が
ありそうなことになる」と考えられる。

同じことをベルクソンは違う表現でも表している。

「死後に意識が絶滅することを信ずる唯一の理由は、
身体の分解が見られることであって、
この理由は、意識のほとんど全部が
身体から独立しているということもまた
確認される事実であるかぎり、
価値を失った理由である」

「意識の身体からの独立」という事実から見ると
自然に発想できるのは
「身体の分解」⇒「心的な生活の残存」であって
「身体の分解」⇒「意識の絶滅」はむしろ証明の義務を負う。

では、「心的な生活の残存」は
どのようなものになるのだろう?

「意識はこの世で出あう物質を通過するとき、
いわば鋼鉄できたえられて、
もっと濃密な生のために、
もっと効果的な行動に
そなえているのではないか」
(ベルクソン「意識と生命」渡辺秀訳より)

この世の生は
次の段階に向けての
準備に過ぎない。

「その(死後の)生をわたしはやはり
戦いの生として、
発想を要求するものとして、
創造的な進化として思い浮かべます」

準備は何に向けてのものかといえば
「戦い」「発想の要求」「創造的な進化」に向けて
ということになる。

この世の生の価値は努力にあり
あの世の生ではその努力を土台に
さらなる努力が要求される。
これは、死んだら無になるとか
極楽で安らげるといった
安心感を誘う考えとは無縁な
じつに苛烈なヴィジョンだ。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。