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バーント・ノートン1

italie20110910 111


「バーント・ノートン」鍵谷幸信訳

現在の時間と過去の時間は
おそらく未来の時間の中では現在となる
また未来の時間は過去の時間の中に含まれる。
もし凡ての時間が永遠に現在ならば
凡ての時間は贖うことができない。
かつてあったかもしれないものは
ただ冥想の世界にのみ永遠の可能性を残すひとつの抽象なのだ。
かつてあったかもしれないもの あったものは
ひとつの終局を指している
常に現在というものを。

これはエリオットの「四つの四重奏曲」の1つめである
「バーント・ノートン」の冒頭。

最初の2行は逆説的にひびく。
未来においては現在も過去も
過去になるのではないのだろうか。
それが「現在となる」といわれる。

個人的には
記憶の働きが
わたしという現在の器官を通して
生じている事態を生成の過程として
そのまま残していると感じているので
現在も過去もいつまでも現在でありつづける
ということに違和感はない。

「未来の時間は過去の時間の中に含まれる」
この3行目も逆説的だが
1、 2行目が自分のもつ感じで受け取れたのに対して
図式的な想像を要求してくる。

常に現在形で生きられるこの世の生が
起きていることをすべて
記憶と化す点だとすると
その結果の集積が未来ということになり
この世の生が終えるとき
その結果はすべて記憶になっていて
その意味で過去となる。

「もし凡ての時間が永遠に現在ならば
凡ての時間は贖うことができない」

この2行に来ると
前の3行はこの2行のための
説明的な前置きだったことが分かる。

エリオットが強調したいのは
凡ての時間は贖うことができる
ということなのだろう。

なぜなら、この世を生きる人にとって
凡ての時間は
起きたこと、起きつつあること、
あるいは起きるかもしれないことを
すべてまとめた、固定的な運命としての
永遠の現在ではなく
起きたことも、起きつつあることも、
あるいは起きるかもしれないことも
まだその意味を確定していない
仮の現在なのだから。

贖うとは
代価を払って買い戻すこと
罪を償うことだとされるが
起きたことの否定的な意味を
肯定的なものに変える
変容ととらえてもいいだろう。

そう解釈するなら
「もし凡ての時間が永遠に現在ならば
凡ての時間は贖うことができない」
この2行は、この世におけるすべての時間には
否定を肯定に変えるチャンスが常にある
ということになる。

「かつてあったかもしれないものは
ただ冥想の世界にのみ永遠の可能性を残すひとつの抽象なのだ」

「あったかもしれないもの」とは
起きてしまったことに対する後悔をもとにした
起きてほしかったことの事後的な想定。
過去は取り返しがつかないというが
その取り返しへの希望であり
前の行の「贖い」の対象。

この「贖い」は可能性にとどまるのだが
その可能性が実現するかどうかは
つづく3行を読む限り
はっきりとは断定されていない。

「かつてあったかもしれないもの あったものは
ひとつの終局を指している
常に現在というものを」

この世で起きたことはすべて
「ひとつの終局を指している」とは
この世の時間に、終わりがあるということだろう。
この世を一人の一生ととっても
人類の歴史ととっても
世界、あるいは宇宙の全プロセスととっても
どういう解釈も成立しそうだが
ともかく時間には「終局」があって
その「終局」は「現在」だという。

この「現在」はここまでの9行をすべて凝縮したもので
この世の過去・現在・未来をすべて取り込んでいて
それらの意味の確定が待たれた状態の「終局」だ。

この「現在」のレベルでは
「かつてあったかもしれないもの」も
実際に「あったもの」も
同じ資格の要素になっている。

つまり、この世で事実として確定したことも
後悔によって望まれる、その事実とは異なる想像も
終局としての現在では同等ということなのだろう。

自分がしてきたことも
しようと思ったことも
終局では同じ価値をもつ。
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