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バーント・ノートン3

italie20110910 013


時間に終わりがあるとした場合
その終わりにおいて
すべての時間は過去、あるいは記憶となる。

動く現在に先導されるとき
記憶は現在の生動をそのままに保存しているので
動く記憶として現在に応えているが
時間が終わるときには
その動きも止まるだろう。

では、それはどのような状態なのだろう。

時間が自らを昇華したものとしての“永遠”。

時間が循環することに耐えられないので
終わりを求め
そこに意味を与えるキリスト教的な発想からすると
この永遠を人は明瞭に把握することはできないが
時間が自らを昇華しつつある現在においては
生成途上の永遠を垣間見ることはできる。

それはどこまで真実なのだろう。
論理のレベルを超えたテーマなので
詩でそのリアリティを再現するしかない。
「バーント・ノートン」の19行目以降は
そんなエリオットの創作意図が感じられる。

「ほかにもこだまたちが
バラ園にいる。追いかけてみようか」

この2行から
真実が露呈している場としての
バラ園の叙述が始まる。

バラ園では人間の経験が
時間的なプロセスから解放されて
エッセンスとしての「こだま」になっている。
それは霊的なあり方をしているのか
「枯葉を見おろしながらふわふわ飛びまわっていた」

「茂みの中にひそむ音のない音楽に
こたえて小鳥が声高くさえずった」

「小鳥」はわれわれをバラ園に導いた先導者。
聞こえない音楽にこたえることで
聴覚を超えた音楽そのものを示してくれる。

「すると、目に見えない視線が交錯した。バラたちが
見てもらう花の眼差をしていたから」

眼球という器官によって見る行為は
バラ園ではもはや
見ることを可能している可視性そのものになっている。
器官も行為もなしに
見る見られるという事態が成立している。
だからバラは見る者がいなくても
バラとして見られている。

この世界に生命が現れ
進化の努力が視力を形成するにいたったとき
はじめて見るという行為が成立したはずだが
その原初的な見る行為の感動といったものが
この詩行に秘められている。

※「バーント・ノートン」の翻訳は「四つの四重奏曲」森山泰夫訳より
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