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バーント・ノートン4

italie20110910 011


バラ園には水たまりがある。
といっても、水は干上がっていて
水のないプールといった様相を呈している。

鳥に導かれてバラ園に入ったわれわれは
そのプールを見おろしている。すると
「やがて水溜に日光の水がみなぎり
蓮がしずかに伸びて来た。
水面が光の真芯からきらめいて現れた。
こだまたちは、ぼくらのうしろで水溜に姿をうつしていた。
そのとき一片の雲が通過し、水溜はからになった」

日の光がプールを満たしていて
それがいわば水になり
そこから「蓮」が伸びあがる。

この「蓮」は万物が生成する
そのプロセスの精華といったものだろう。
存在することそのものが至福であるような
歓びの形象といった感じがする。

水の表面は日の光の奥からほとばしり出て
きらめいている。
内在的な奥がそのまま表面になるということは
本質と現象といった区別を超えて
現れているものがそのまますべてという
分割されない一性を思わせる。

この「蓮」のシーンをわれわれは
背後に控える「こだま」と一緒に見守っている。
この「こだま」は人類の諸体験のエッセンスであり
われわれと「こだま」はいわば人類の歴史であり
歴史という時間的プロセスの資格で
万物の生成の真実を見守っている。
同時にこの真実は鏡になっていて
われわれ人類史を写し出している。

しかし、それを長く見ることは
われわれには叶わない。
「そのとき一片の雲が通過し、水溜はからになった」
「雲」の通過で「蓮」の開花を支えていた水たまりは消えてしまい
真実の光景も隠れてしまう。

『「さあ、もう行きなさい」小鳥が言った。「真実も
度を越すと人間には耐えられないから」』

バラ園へとわれわれを導いた鳥が
そこから出るようにと促す。
なぜなら、人間は真実に耐えられないから。

真実に接っすることは
人間の能力を超えたものに対して
自分を開くということだろうが
生命維持のための有効性に注意力を支配された人間の意識には
なんのためになるのかも分からないし
自分を満足させるのかどうかも分からない
この開いた状態を維持することは
とてもむずかしい。

※「バーント・ノートン」の翻訳は「四つの四重奏曲」森山泰夫訳より
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