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生きる歓び3

091003 006


この生は死によって
どのような形であるにせよ
数か月か数年で終わる
そう思ったとき
キャリアプランとか蓄財計画とか
現世的な関心は縮小して
気晴らし的な楽しみへの傾向も後退した。

まずはっきり現れたのは
パートナーとの生活を失うことへの
痛切な悲しみだった。

一人でいるときに
生活の一コマで彼女が見せる笑顔を
一瞬思い出しただけで
意識の反応より速く涙が出始め
それが嗚咽に変わり
しばらくは発作をやり過ごすように
じっとしているしかない。

この悲しみは
大切なものだと思った。

家族をはじめとする身近な人たちへの想いは
それまで重視したことなどなかったが
死を意識すると急に大切なものだと思いはじめた。

逆に、現実を一般化する
抽象的な思考に対しては
関心が低下した。

抽象化には、現実を図式に当てはめて
整理する気持ちよさがある。

しかし、現実は図式に収まり切らない。
そこで、別の抽象化の手法が欲しくなる。
これを繰り返して来た。
つまり、抽象化の手法を消費してきたのだ。
消費する楽しさに引きずられてきたといえる。

これは、経験に蓄積されない
その場限りの楽しさで
そういう楽しさにはあまり関心がなくなったので
現実を図式に当てはめるのではなく
現実の直接的な体験を
深化させことはできないだろうかと思うようになった。

経済状態や仕事の進捗状況や
それに付随する人間関係や
さまざまな用を足すことが生活上は必要だが
その用ごとから意識的に離脱したところで
感覚と情動を解放したいと思った。

たとえば、鳥のさえずりを聞きながら
生命体の進化プロセスにおいて
聴力というものが初めて切り拓かれた
その瞬間の感動に
可能な限り近づくことはできないだろうか。

人といっしょに暮らすことには
家計のやりくりを共同で行うとか
欲求をたがいに満たし合うとか
用を足すのに都合のよい側面がもちろんあるが
それだけではない共存することの価値を
感じることはできないだろうか。

しかし、こういった欲求に従うには
やはりまず、目前の死に対して
自分なりの応接方針を固める必要があると感じた。
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