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生きる歓び4

091003 008


人は事実上
自分が死ぬ日についての確実な予測がない限り
無意識にではあるが
自分を不死だと感じている。

2016年5月にがんのステージⅣという宣告を受け
余命の目安が示されて以来
その予測は確実ではないものの
自分を不死だと無意識に思っていた事実が露呈し
死と意識的に直面することになった。

確認できたのは
死後は生の側にいる者にとって
謎のままに残るということだ。

生きている人間が知覚できるのは
死によって
肉体が崩壊するということだけだ。

この事実認識以外に
実証性にもとづく認識はなく
死について確実な判断は下せない。

その意味で、この事実認識以外の
死に関するあらゆる見解は
仮説にとどまる。

だから死後が
なにもないという意味で無だと思うことは
仮説を無意識に信仰しているに過ぎず
事実上は思考停止でしかない。

死に対する恐怖は
死にまつわる想像的なイメージから来ていて
そのイメージの出所を把握すれば消える。

恐怖をすべて消せるかといえば
知らずに受け入れているイメージがたくさんあり
すべてのイメージの出所を究明することはできないだろうから
恐怖を感じるたびごとに
その原因となっているイメージを明瞭にして
ひとつ一つ消していくしかない。

恐怖を喚起するイメージに
死にいたるプロセスの生理的な苦痛が入っているなら
それは緩和ケアによって軽減するのだから
適切な医療サービスを受けられるよう
算段すればいいだろう。

恐怖という感情は
生命が自己の存続のために
本能的に発する防衛的なサインで
それが死後についてなにか語っているのかどうかは
やはり謎だ。

いずれ科学は
これまで臨死体験として語られてきた神秘的な体験が
脳の特定の箇所と関連することを発見し
その箇所を刺激することで
人工的な“神的な歓喜”を可能にするだろうが
それはあくまで生の終わらせ方に関することで
死後についての解明にはならない。

物質の測定をもとにして
事象の再現性を実証し
それを必然的な法則として
数学的に記述する科学の方法論は
生の側から見た死の物質的な側面しか捉え得ない。

だから、死の謎を解くことを
科学に期待することはできない。

認識と判断はあくまで合理性に沿わせるということなら
ここで死についての考察は終わる。
しかし、人の体験は合理性で割り切れはしないため
体験的な真実から死を捉えるというアプローチがある。

たとえばベルクソンは
記憶が脳の局所にあるわけではなく
脳とは独立に存在していることを立証し
物質に属する肉体が崩壊しても
記憶、ひいては精神が
死後存続する可能性を指摘している。

こういった認識は蓋然性しか示しておらず
不確実な認識だとし
死の不可知性を前面に立て
死という観念をストイックなまでに遠ざけることも
生きるための戦略としては
一見識であるかもしれない。

人類は時間が円環すること
輪廻によってこの生が再び何度でも繰り返されることを
長い間、信じていたらしいが
ブッダが輪廻からの解脱を努力目標に据え
ユダヤ・キリスト教は創造から終末にいたる
プロセスの1回性を世界観の前提に据え
こうして仏教・キリスト教圏においては
輪廻の一契機だった死が
以降、総括を求める終わりとなった。

そんな神話は時代遅れだといえるが
では、生きるという事実は死後とまったく無縁なのか。
生と死がまったく無関係だとは思えない。

生もまた、知り得ることがあるとはいえ
総体としては謎だ。
謎のなかに埋没する者には謎などないが。

死の謎は生の謎と拮抗するのではないか。

生は死という謎を孕むものとしてあるように感じられる。

死という謎を美しいと感じることもできる。

生きることで生の謎を深め得るなら
死の謎もまた深まり得るように思う。

謎を深めるとは体験を深化させることで
それはそのまま生きる充実になる。
局面によっては、それはそのまま生きる歓びだ。

自分で自分の死後を認識できるかどうかは分からないが
生きている自分にとっての
愛する人の死がもたらす精神的な体験は
記憶と想像力が現出させる精神現象だと割り切ることはできない。
2人称の死が生と死の関係を語ってくれはしないだろうか。

死を迎える工夫というものはあるのだろう。
その工夫しだいで、突然、死によって断ち切られる生
という不全感は払われるのではないか。

生きることの肯定は年齢を受け入れることだ。
普遍妥当な真理には年齢が関与しないが
年齢を積むことでしか、持続を育てることでしか
体験できない実相があるなら
その体験の深化を心がけたい。

死はそのプロセスを断ち切るものだが
断ち切ることで死は自らの役割を終えるのだ。

命を賭けるという。
それは、死を信頼するということだ。
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