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聖フランチェスコの「完全なよろこび」2

basque 064


フランチェスコは「完全なよろこび」を
次のように描く。

雨と寒さ、泥と空腹に苦しみながら
ある修道院に着いて戸をたたくが
門番はこちらを修道士と認めず
寄進の品を盗むならずものといって
戸を開けてくれない。
「この門番こそ自分たちの本性を
ほんとうに知ってくれている者なのだ、
この門番がわたしたちをののしるのは、
神さまご自身のお計らいによるのだと考えられるのなら、
そこにこそ完全なよろこびがある」

自分の望みが伝わらない相手の存在にこそ
フランチェスコは「完全なよろこび」を見る。

そんな門番に対して、なおしつこく戸をたたきつづけると
門番は怒って悪口をいい
侮辱を投げつけ、ののしる。
この対応に「忍耐とよろこびをもって
深い愛の心から、じっと耐えられたなら、
そこにこそ完全なよろこびがある」

こちらを誤解した相手の反応を受け止めることに
フランチェスコは「完全なよろこび」を見る。

それでもなお、戸をたたきつづけると
門番は怒り狂い
こちらのマントをつかんで地面に引き倒し
雪の中にころがし、棒でさんざん打ちのめす。
「こういうことをすべて、
がまん強く、よろこんで耐えぬくとしたら
そこにこそ完全なよろこびがある」

こちらに対する、無理解ゆえの攻撃を受け止めることに
フランチェスコは「完全なよろこび」を見る。

こちらの願いが聞き入れられず
かえって誤解され
攻撃的な反応に会う。
なぜ、こういったことが
「完全なよろこび」なのか。
フランチェスコは次の説明を加える。

福音書のイエスはいろいろな恵みや賜物を与えてくれるが
そのなかでも「自分に勝つという賜物、
ご自身への愛のため、苦しみ、あなどり、恥、不便を
よろこんで耐えるという賜物こそは
何ものにもまさる」

なぜなら、すべては神から来るが
「(自分が)患難、苦難の十字架を負っているなら、誇ってもよい。
それはわたしたち自身のものなのだから」

患難・苦難だけは、神からのものではなく
唯一、自分たち自身のものであって
それに耐えることが自身を愛することになる。

フランチェスコは常に
在らしめられていることへの賛美を心がけ
感情の激しい起伏をもちながら
情動の基調はよろこびに置こうとした人のようで
そのような心性のかなめにあるのが
かれにとっての、パッシブさそのものといえる
「完全なよろこび」なのだろう。

フランチェスコの時代は
神を信じるか信じないかは問題にならず
どう信じるかが重視されたのだろうが
現代は科学とその技術的応用の射程が
どこまで伸びるのかに興味を宙づりにされていて
絶対者といった観念はひどく流行おくれなので
信仰よりスリルとサスペンスを提供する
科学技術に対する時間配分の投資が重要で
「完全なよろこび」より、よろこびの
バリエーション消費が課題だと感じている。

では、彼の「完全なよろこび」は
自分にとってなにか意味を持ちうるのか。

※引用は「聖フランチェスコの小さな花」田辺保訳より

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