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聖フランチェスコの「完全なよろこび」3

basque 066


よろこびは通常
自分の願いや望みがかなった状態で感じるものだが
フランチェスコはそのような状態をすべて
「完全なよろこび」からは除外する。

むしろ、自分の願いや望みが相手に理解されない
というより、誤解されて非難され
暴力的な反応すら受ける
これがフランチェスコの「完全なよろこび」だ。

願いや望みがかなうというのは
神が決めたこの世の成り立ちの法則にそった形で
自分の働きがうまく実現したことを示すのだろうが
この状態では自分の働き以上に
法則をつくった神の力のほうがより本質的であり
たとえ、よろこびを感じるとしても
それは人間にとって「完全」ではない。

しかし、願いや望みがかなっていなければ
神がつくった法則はまだ効力を発揮しておらず
人間に固有の困難さだけが現れていて
この状態こそ、神からある意味で独立した
唯一の真に人間的なものだといえる。

そして、この状態では
困難を克服するための人間的な工夫が必要になり
人間なりの創造性が求められる。

その創造性が有効なら
知性は知性の法則通りに働き
その状態にふさわしい感情が起こり
要するに精神はマシンのごとくに展開して
困難な状態の困難さが克服される。

重要なクライアントとの打ち合わせに遅刻しそうなとき
脳梗塞で寝たきりになった母親の面倒をどうみたらよいのか途方に暮れるとき
必要な金が手元になく経済的に追い詰められたとき
がんの発覚で余命が短いと知ったとき
どんな状況のどんなレベルであっても
困難への対処がせまられるとき
自分なりの創造性を発揮しうることによろこびを感じられれば
そのよろこびは「完全」となる。

これは苦難を好む、ゆがんだ愛なのだろうか。
一見、そう思えるが
快活な若きフランチェスコが
共同体から排斥されたハンセン病患者を見て
自分の感じるよろこびに不完全さを認め回心にいたる
その軌跡を踏まえると
曇りのないよろこびを一途に求めた結果
到り着いた境地であり
時代背景の違いや信仰の有無にかかわらず
誰にでも応用可能な精神操作の技法だと思える。
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