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谷川俊太郎の死に関する表現

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「死を問わずに生を問うことはできない、死を受容せずに生をまっとうすることはできない。」

詩人の論理
あるいは直観によれば
生のまっとうには死の受容が不可欠となる。

だから、「死を問わずに
生を問うことはできない」
では、受容すべき死とは何か?

「人は最終的にはそれぞれの孤独な幻想にすがって死を迎えるしかない。」

死あるいは死後についての
明晰判明な、誰もが肯定する
普遍的な観念は得られない
死については「孤独な幻想」しか持ちえない。

しかし、これは合理的な観念は得られない
という事態でしかなく
死が無意味になるわけではない。

「人間は自然を管理し、支配しようとすることで人間になってきたのだが、死は性とならんで、おそらく最後までわれわれを脅かす内なる自然であろう。」

詩人にとっての「死」は
「われわれを脅かす」が
外から自分を襲う不可避の事件ではなくて
「内」にある。

つまり、生命は死と対立などしていなくて
生命のうちに死がある。

「死ぬのはおそろしいけれど、死んだら意識というものがどうなるのかということに好奇心もあるので、どんな具合に死んでも化けて出るのはよそうと思っている。
つまり死んだら、もう生きてたころのことはさっぱり忘れて、死んだことに熱中しようと思うのだ。」

死後に対しては恐怖以外にも
好奇心をもてる。
ここまでが生きる者の
死に対する理性的な姿勢だが
詩人の創造力はさらに一歩を踏み出して
「死んだら、もう生きてたころのことはさっぱり忘れて、
死んだことに熱中しようと思うのだ」

ユングは自分の妻が
研究を終えることなく死んでいったため
死後もその研究をつづけているという
想像的なエピソードを語っているが
それは日本語でいう「死にきれない」状態のことだろう。
谷川俊太郎は死んだら死にきる
生きているうちは生ききる
あるいは、そうありたい
と宣言しているようだ。

この宣言は吹っ切れた明るさをもっていて
ときどき護符として
死のイメージが発揮する
負の威力を無効にしてくれる。

※引用はすべて「谷川俊太郎の問う言葉答える言葉」より
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