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田中小実昌「ポロポロ」1

091003 015


石段を上がり切ったところで
作者は人を見たと思うのだが
その後の経緯を合理的に整理してみると
その見たはずの人は
いなかったことになる。

作者は自分の見たのが知り合いだと思い
その人を追い越して自宅に入るが
そのとき、知り合いはうちに来るものと考えて
玄関を開けたままにしておく。

しかしその後、誰も来る様子がないし
玄関はいつの間にか閉まっている。
その閉まる音は聞こえなかった。

知らない人だった可能性は
状況を丁寧に考えても、ない。

では一体、その体験はなんだったのだろう。

「ポロポロ」との遭遇だった
というのが作者・田中小実昌の結論になる。

「ポロポロ」というのは
牧師である田中の父が祈祷会をやっていて
そこに来るある信者の祈りの声を
あえて音で拾うと「ポロポロ」になるというもの。

「このポロポロは、いわば、一木さんの口ぐせ(?)だった。ポロポロのもとは、使徒パウロだろう。しかし、一木さんは、パウロ先生の霊に、いつもゆさぶられていたかもしれないけど、これは、やはり、祈りのとき、ぽろぽろ、と一木さんの口からこぼれでたものにちがいない。」

パウロパウロがポロポロになった。
これは祈りの声だが
祈りはその祈祷会では「さんび」だった。

作者は通常の祈りを次のように批判する。
「だれかが祈ってる言葉をきくと、ちょっぴり自己反省をし、そして、自らの徳行を誇り、あとは神にたいする要求ばかりだ」

そのような祈りに対して
作者はイエスの祈りを対置する。

「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いでなく、みこころが成るようにしてください」

この祈りは
「神への要求でもなければ、自分の願いでもない。ただ、神をさんびさせられているのだろう。言葉は自分の思いをのべることしかできない。イエスは、自分の思いをのべているのではないのだ」

言葉にならない賛美の声
これが「ポロポロ」ということになり
イエスの祈りも「ポロポロ」で
祈祷会に来る信者の祈りも「ポロポロ」だった。

では、どうして、見たはずの人が
「ポロポロ」だったということになるのだろう。
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