FC2ブログ

記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ガルシア=マルケス「雪の上に落ちたお前の血の跡」

IMG_0885.jpg

世界の中に自分がいる事態を
主体と客体に分けて整理しようとすると
社会生活上は
主客の区別が有用な局面が多いとしても
哲学になると
乗り越えられない一線が出て来てしまい
暗礁に乗り上げる。

わたしはわたしで
冬の朝日を浴びている桜の木ではない
これは当たり前のことで
わたしは冬の朝日を浴びている桜の木だ
とひとにいったら
少なくとも怪訝な顔をされるだろう。

しかし、世界と自分が
なんらかの一致を共有していなければ
わたしはこの世界にいられない。

肉体的には皮膚を限界面として
わたしは周囲と区別されるが
精神は皮膚のような限界面をもっていない。

この事実をたとえば
わたしの精神は視覚をとおして
冬の朝日を浴びる桜の木になっている
と表現することもできる。
ただ、それをひとにいえば
やはり怪訝な顔をされるだろう。

マルケスの「雪の上に落ちたお前の血の跡」には
こんな表現がある。

「まだ子供のように見えるネーナ・ダコンテは幸福な小鳥のような瞳に、陰気な一月の夕暮れの中でまだカリブ海の太陽を照り返している糖蜜色の肌をして、ミンクの襟がついたコートに首まですっぽりくるまっていた。」

「瞳」は「幸福な小鳥のような」と比喩で形容されているが
「肌」は「太陽を照り返している」と表現されていて
「一月の夕暮れ」で生じている事態が
そのまま人物の一部をなしている。

主人公の2人が
歴史ある屋敷の一室で愛し合う場面

「ほとんどまる二週間にわたって毎日、その時間にふたりは裸で戯れた―その歴史的なベッドの楽園に彼らよりも先に遊んだ闘士たち、貪欲な祖母たちの肖像が呆然と見つめる前で。」

2人のベッドのまわりには
先祖たちの肖像画が飾られていて
描かれた人物たちが2人の様子を
「呆然と見つめる」。

常識的には、肖像画が見るわけはないので
この表現は、2人が「戯れ」に熱中する度合いの激しさを
生きているはずのない肖像画すら「呆然」とさせてしまうという
程度を表わす一種の比喩だが
屋敷にいついた霊が
自分の肖像画を通して生者の営みを見ているという
想像力豊かな認識として受け取ることもできる。

ネーナ・ダコンテの指からの出血

「パリの郊外に入るころには指は抑えがたい血の泉と化しており、彼女は本気で傷口から魂が流れ出しているように感じた。」

「指は…泉と化して」いる。
指が泉になるという生成が
直接的に表現されている。

この作品を締めくくる文章

「パリの通りにはよろこびの空気があった。十年ぶりの大雪だったからだ。」

大雪という客観的な外的事実があり
それに対してひとの主観が喜んだ
そういう事実の表現だととるのが普通かもしれないが
端的に絶対的な事実として
「よろこびの空気があった」と受け止めることもできる。

この作品は、事実を手際よく正確に伝える
冷徹なリアリズムの文章で構成されているが
いま列挙した、常識的な区分を飛び越えていく数パーセントの表現が
作品全体に詩を注入している。
スポンサーサイト

コメント

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

コメントの投稿

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。