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プルースト ただの一時間ではないもの

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余命がたとえば8か月だと告げられたとして
その8か月という時間は
どうとらえたらいいのだろう。

余命の宣告など当たりはしない
そう考えることは
もちろんできる。

それでも、しつこい呪いのようなものとして
歓びや楽しさを感じるようなときでさえ
影のようにその数字は意識に現れるだろう。

自分の生きている時間というものが
どうなっているのか
がんが発覚してからはとくに
抽象的な時間論としてではなく
切実なテーマとして
理解したいと思うようになった。

8か月とか2年とか
数値化された時間に関して
プルーストはこんなことを書いている。

「朝のカフェ・オ・レの味は、淡い晴天の希望をもたらしてくれる。以前はまだ一日が手つかずでそっくり残されているときに、まるで牛乳が凝固したような襞のあるクリーム色がかった白い磁器のカップで私たちがそれを飲んでいると、夜明けの不確かな光のなかで、晴天の希望がよく私たちに微笑みかけたものだった。一時間はけっしてただの一時間ではない。それは香りや、音や、さまざまな計画や、気候などのつまった壺である。」

時間は「壺」であって
そのなかにはいろいろなものがつまっている。
そのものたちの多彩さは
時計による測定の網にはかかりようがない。

だから「一時間はけっしてただの一時間ではない。」

どんなものがつまっているのかといえば
ここでは「晴天の希望」が例示されている。
その「希望」は「朝のカフェ・オ・レ」がもたらしてくれるものだ。

朝、カフェ・オ・レを飲めば
その日が晴天になるというわけではないから
カフェ・オ・レと晴天とに因果関係はないが
カフェ・オ・レを飲んでいると
その日が自分の願っているように
晴れそうに思えたことがよくあって
そうした経験がカフェ・オ・レと晴天を
事実上、結び付けている。

個人の過去にはこのような
経験的な結びつきがたくさんある。
というより、経験的な結びつきこそが
個人を形成している。

「人生の提供するイメージは、実際その瞬間に異なる感覚を私たちにもたらすのであった。たとえば、ふと目にとまったかつて読んだ一冊の本の表紙は、そのタイトルの文字のなかに、遠い夏の夜の月光を織りこんでいる。」

ある瞬間は時計で計れば
あっという間でしかないが
そこでは「夏の夜の月光」が
そのとき読んでいる本の表紙のタイトル文字を照らしていた。

そんな事実があったというだけの記憶なら
時計の文字盤が知らせる時間と同じようなものだが
その記憶が感覚までともなって
はっきりよみがえることがある。

その事実がどんなにつまらないものに思えても
その事実はその事実なりに
わたしという個人の形成にあずかってきたし
いまもあずかっている。

時間を数字で表わせば
誰かと待ち合わせるために時刻を決めたり
一定の時間を過ごすために
期間や締め切りを定めたりできるという利便性を
社会生活には提供できる。

がん患者への余命宣告も
社会的には意味をもつのだろう。

しかし、数字は了解をとりあうために
壺へ貼る符丁にすぎない。

時間の内実は数字で表わせないし
長さで計ることはできない。

※引用は「失われた時を求めて 第七篇 見出された時」鈴木道彦訳より
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